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小島貞二展市川文学プラザで開催

市川市文学プラザ小島貞二展  市川市文学プラザ小島貞二展 裏
亡父、小島貞二の七回忌の法事を6月にすませた。月日の経つのは早いものだ。
今年10月24日から来年2月28日まで千葉県市川市文学プラザで「小島貞二の世界」展が開催される。略歴は別の機会に譲るとして、主に寄席演芸と相撲の世界を中心にモノを書いてきたのだが、最晩年は朝日新聞千葉版で「千葉笑い」という川柳やコントなどの笑文芸のコーナーを持っていた。
この「千葉笑い」は現在も遠藤桂三、神津友好両氏によって引き継がれている。
展示会では、亡父の足跡とともに、相撲や寄席に関するライブラリーなどを紹介する。
四ヶ月の長い期間の展示会なので、是非一度のぞいていただきたいと思います。
なお、晩年の弟子であった古今亭菊ノ丞我出る記念寄席も予定されている。
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重ね地図について現状報告

 明治を重ねた3層までできたが、金員を支払って下図を描いてもらった中川氏との契約更新の理不尽な揉め事があり、現状ではこの企画をこれ以上進めるのが困難な情況に立ち至ってしまった。残念な報告。
 この地図を基図にして、みんなが各年代の情報を作って、情報を共有できたら素晴らしく世の中に役立つ有意義な仕事になるはずであった。東京に限らず、横浜、大阪、京都、名古屋、福岡などの大都市も、この手法で創ることができるはずだ。この壮大な構想を今後誰かに引き継いで頂く方がいないものか。もともとこの仕事は面(地域)を広げ、年代層を重ねるという際限ない金のかかる仕事であり、資本力がなければ成り立たないことは自明の理。私どものような小資本のココロザシだけの会社ではなく、行政の仕事といってもいいのかもしれない。
 私のような江戸っ子には、自分のことはさておき他人(ひとさま)のためには一所懸命になる性癖がある。この企画を準備構想していた時が私にとって、一番楽しい時間で、実制作を始めると、進行管理や原稿書きやDBつくりと、資金繰りと、ソレは恐ろしい仕事であった。地図会社がやらないのも道理であった。この仕事が評価されて、東京に生活の場を持つ方々から応援のお手紙をたくさん頂いたのが何より嬉しかった。
 人間は一人では生きられない。持ちつ持たれつの、そういうたおやかな人間関係があることで世の中が支えられ、成り立っていく。一人の人間の欲望に振り回されてしまったが、本企画でやりたかったことは、30年~40年前の夢のような良き時代、良き風景、良き人間たちを心に刻みながら、穏やでホッとする人間たちの交歓や希望をこの地図にとどめておきたかったのである。
拝金社会の一つの断面なのだろう。

最後に
江戸東京重ね地図のあとがきを紹介させてください。

 パソコンソフトの企画者がパソコン嫌いを宣言するとびっくりされるだろうが、実際コンピュータは、私のような右脳派、非論理アナログの側の人間からすると、まったくもって不愉快な道具だ。大枚何十万も出して買ったものが、数ヶ月もすると、機能アップしたうえに値段までもが安くなった新機種がでてくることになる。二、三年もすると、使っているマシーンはもう何世代も前の機種となって陳腐化し、新しいソフトが使えないはめになる。メモリーがどうの、ハードディスクの空き容量がどうの、OSがどうのとまったくチンプンカンプン。パソコン操作に精通していない人間には魑魅魍魎の世界にわけいってしまう。クリック、ドラッグ、インターフェイス、デバイス、プロパティ、ドライバー……などなど、日本人には日本語で説明しろ、と声を大にして言いたい。
        <中略>
 この企画の発想は、江戸、明治、大正、昭和戦前、戦後四十年代、昭和六十年代、平成という幾つもの時代軸から東京という巨大都市の変遷を見ることができないだろうかという視点からスタートした。バブルがはじけ、虫食い状況になってしまった都心部の街並みを見るにつけ、それぞれの時代の街並み地図を書籍より検索性などで優れているマルチメディアで記録しておけば、後世に役立つ地図が残せるのではないかという意図なのだ。
 相撲人気で賑う両国の国技館や隣接する江戸東京博物館はつい二十年前、総武線両国駅の広大な操車場で、遡ること江戸の昔は幕府の御米蔵や大名屋敷であったというようなことは、郷土史家ならいざしらず、一般の人々はほとんど知ることがない。
 こういう昔の街の様子を知りたいという興味は、東京に限らず都市に住む住民なら誰でもが抱く自然な欲求に違いない。
「あなたの職場、学校、住まいの昔がわかる」という副題を冠したのはそういう興味に答えていますよ、という制作者のささやかなひとりごと。
地図は無限の情報源だ。
 千代田区を代表する麹町は十三丁目まであった古町で、その町名の由来は?江戸の各々の町がどういう歴史で現在に至っているのか。東京を代表する浅草寺や増上寺の広さは昔のままなのか、不忍池の周りに馬場が在ったのは本当なのか。東京を縦横につなぐ往還道路は、いつ頃、川や堀を暗渠にして通ったのだろうか。山手線や中央線などの鉄道はいつ敷設され、いつの時代に拡張されていったのか。路面電車はいつなくなってしまったのか。私が高校生だった昭和三十九年の東京オリンピックを境に、東京の街並みは大きく変貌してしまった。街のあちこちが掘り起こされ、道は拡幅され、日本橋の上に高速道路を通した愚挙が行われた。町名変更が盛んに行われたのも確かその頃だったように思う。私的な思い出の数々に、良くも悪くも東京という街のバイタリティを思わざるをえない。
 興味尽きない地勢情報と歴史を関連(リンク)付けることで、幾倍もの地図を見る楽しみを得ることが出来る。それこそが、マルチメディアの楽しさではないか。時代小説の舞台を重ね地図上で散策することで、小説の主人公をより身近に感じることもできれば、江戸文化の豊穣さも感じ入る。当然、地図のランドマークをクリックしながら、それに纏わる絵画や写真、解説文などで地図をより充実した資料にすることができる。
      <中略>
準備した『江戸名所図会』、広重の『江戸百景』、北斎の『絵本隅田川両岸一覧』、『吉原郭内地図』などの絵画資料や、地点に纏わる落語などの音声資料はデータ圧縮技術を使っても紹介することができなかった。明治、大正、昭和との重ね作業と併せて、次回の大容量DVDメディアに企画をゆずらざるを得なかった。
 しかしながら、手前味噌ではあるが時代を透かし見る江戸と現代の二層の重ね地図が出来たことは画期的なことではないだろうか。永井荷風の『日和下駄』、矢田挿雲の『江戸から東京へ』をはじめとする古い東京を紹介する名著と池波正太郎、藤沢周平、山本周五郎の時代小説の世界を21世紀の新しいメディアで体感できる日はそう遠くないことを皆さんにお約束する。この企画をスタートした三年前には、DVD-ROMのマーケットは及びもつかなかったが、劇的なパソコン市場の進歩で、将来紹介できる企画の内容と幅が、格段に拡がったように感じている。
この『江戸東京重ね地図』を発展途上の企画として末永く楽しんでいただきたい。

箱根駅伝で惨敗す

 正月といえば箱根駅伝をザッピングしながら観る。私の正月番組唯一の楽しみです。
 我が母校中央大学は箱根駅伝で最多優勝14回(?)。今年は往路14位、復路3位、総合8位でした。
毎回優勝候補の一角と喧伝されて今年はエースの上野選手が3年となって、1年の時の失敗を取り返す走りを期待していたのですが、凸凹があって全体としては残念な結果でした。
とはいえ、後輩の頑張りには、ただただ感動。
白いユニホームに赤い襷はいつ見ても、さわやかで大いに結構。
それにしても5区の順大の今井君は本当にすごい。あんな急な上り坂を
平地を走るように軽快に走り抜けるとは。
 
 番組の合間に入る昔の記録映像を見ても、今の駅伝は格段にスピード化されていて、どの大学の記録も我々の学生時代の優勝タイムに匹敵するのではないのか。
 いやはや20キロを60分で走るなんて、考えただけでも恐ろしい。
走りのスピード感は、私など併走100メートル出来るかどうか。
 長距離のチーム競技の駆け引きに、ちょっと抜いたのちょっと遅れたのは野暮の骨頂。
せいぜい沿道で母校の旗を振るくらいしか出来ませんが、来年は優勝を目指して勇気ある走りを見せてください。

目利きがいなくなった

 最近体調不良が続き、制作人生35年の垢を落とすように医者に薦められて、女房と二人で旅を楽しむ機会が持った。九月月初に越中富山の風の盆、新潟村上から秋田玉川温泉から盛岡、伊豆長岡、小田原、富士山へと日帰りの小旅行を数に入れても二ヶ月ほどの間に6回の癒しの時間を過した。

 ディレクターやプロデューサーなる職種の大本は、姿かたちの見えない何も無いところから企画を立ち上げるのが仕事で、とりわけ私が奉職していたレコード会社の学芸部は稼ぎ頭のタレントもの以外のところで、何がしかの企画をたちあげていくという地味な部門で、とはいえ企画なら何でも良いというわけでもなく、ある一定程度の売り上げノルマを達成しなければいけない。そういう地味な部門には、制作費も宣伝費も潤沢にあるはずも無く、初期の私が関わった「ひらけポンキッキ」の一連のヒット曲は、プレイヤーをいれてスタジオを借りても信じられないくらいの安い制作費だった。おおよそ、制作費の無い仕事では、自分の人脈や労力や時間を出し惜しみすることなく、集中力をフル回転させて物を生み出さなければならない。その唯一の拠りどころはというと、自分の感性を信じるしかなく、偏屈にして意固地な人間が、この職種には数多いわけだ。数十年前コロムビアの「演歌の龍」といわれたは馬渕玄三ディレクターなどは、用のあるときにしか会社に顔を出さず、社会の底辺でうごめいている人々の動静を探って飲み屋や女のところで打ち合わせをしていたという伝説を持つ。
もちろん今のような管理社会では、比較的自由のきく製作部門とはいえ、こんな社員はお目にかかれないが、そういう怪しげな一群が、一歩誤ると、キックバックだの何だのと、先年のNHKディレクター何某のような輩が出てくる羽目になる。
  自分の企画をじっくりと育て、社会に企画の良し悪しを問うタイプの人間は、あまりお目にかかれない。
およそ目利きといわれる見識ある人たちが制作の現場からすっかり居なくなってしまった。

風の盆越中富山に行って来た

仕事柄地方へ行く機会が多い。思い立ったらすぐスケジュールを調整していつでもどこへでも飛んでいく。プロデューサーという仕事の醍醐味のひとつだろう。
 今回は女房のたっての頼みで越中富山の風の盆(八尾)に旅行代理店を通した旅行をした。初めての団体旅行とはいえつまらなかった。
27.8年ほど前、「越中おわら節」「安来節」「磯節」「刈干切唄」「江差追分」「佐渡おけさ」などの民謡の競演集を企画した際、全国を飛び回って地元録音したことがあり、八尾には打ち合わせや録音などで延べ十回ほど訪れたことがある。当時から「風の盆」は観光化されていたとはいえ、まだまだ情緒綿綿とした風情があり、各町内の流し連の唄と踊りを身近に楽しめたが、今回は流し踊りにあえず、舞台の上での歌と踊りを人ごみの中から遠目に見ただけ。もっとも八千人からの小さな町に、突然一日十万人の観光客がが入り込んで、ぞろぞろ町を徘徊する雑踏に情緒もへったくれもない。歌い手も踊り手もそんな中で演じたくないと思うのも人情。おわら節を本当に味わいたければ、9月3日風の盆最後の日の午後十時過ぎに行けば、ほとんどの観光客が帰ったあとで、地元の有志がさらさらと流れる疎水の中に胡弓や息継ぎの長く切な悲しげなおわら節を堪能できる。
六年ぶりのおわら節は、見事に期待を裏切られた。