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芸能地図大鑑発売時の対談

『江戸東京芸能地図大鑑』は我ながら傑作ロムと思う。場所にまつわる芸能演目、芸人、エピソード解説などが無限にリンクされ東京芸能の全てがわかるという代物だ。しかしなかなかそのすばらしさを伝えることが出来なくて、販売は苦戦している。
発売時澤田隆司氏・高平哲郎氏の両御大に対談してもらった記事を転載します。ちなみにこれは「読書人」に載せたものです。


江戸開府四百年・エノケン生誕百年記念
対談・東京芸能楽屋裏

●エノケン・ロッパ再評価 
【澤田】 この間古いフィルムで「らくだ」を喜劇祭りをやっていたのね。昔の台本が松竹にあって、松竹で撮った映画の台本、それから浅草でやっていたころの台本。「八木節」で出てきてってあるんですよ。台本を見て、くず屋を大村崑さんにやってもらって、谷幹一さんにらくだをやってもらって、丁の目の半次を橋達也君にやらせて突っ込ませてっていうので、それはそれなりにやったんだけど。そのときにエノケンさんの演出が分からないんですよ、映像がないから。『らくだ』だけ松竹の映画がないんですよ。
 そうしたらこの間、東映の一時間物をエノケンさんは何本か撮っているんですよ。昭和三十何年にもう足が悪くなってから。そのフィルムをこの間持っている人がいて、見せてもらった。もう中村是好さんとエノケンさんのコンビネーションがとんでもなく面白い。新人監督だから、ずっと撮りっぱなし。
【高平】 エノケンさんは晩年、東宝ミュージカルで座長を張っているわけでしょう。『雲の上団五郎一座』とかで。ところが、僕はもうすでに面白くないわけです。姉は「この人は面白かったわよ」ってさんざん言うんだけど、何が面白いのか分からないうちに足が悪くなっちゃう。やっぱり千葉信男、三木のり平、八波むと志、有島一郎、あと藤村有弘とかNHKテレビの『おいらの町』から出てきた人たちのほうがずっとおかしいんですよ。僕の世代では。
【澤田】 でもこれ本当にめっちゃくちゃ面白い。僕は、自分がここはどうしていたかなと思いながら演出していたから、崑ちゃんなりにやりますよ。でも何か違うなあと思っていた。エノケンさんの残っている映画ってつまらない映画が多いんですよ。もう断然面白い。舞台のまま。山本嘉次郎さんが監督でしょう。譜面が読めるということで、自分が頼んで入れたんですね。エノケンさんは映画というものに対してものすごくあこがれがあるし、ハリウッドの映画を見ているから、舞台と違うことをやっているというのを発見した。いろんな当時の古い雑誌を読むと、評論家がみんなけなしているんですよ、エノケンの映画は面白くないって。われわれはエノケンの映画で育ったから、エノケンは面白いものだと思って見ているでしょう。この間初めてエノケンは面白いと思った。
【高平】 三十年代ですか。
【澤田】 それはだってもう、是好さんと二人で、例えばちょっとアドリブをやるじゃない。舞台だと。死体が、全然動かないんだけど、一回だけぱっと触るところがあるんですよ。そのときにエノケンさんがぱっとたたくことがある。ここなんかの息はもう最高。何かぽっとつかんだりするのね。それは一回しかやらないんだけど、これは舞台だと分かりますよね。演出したら分かるでしょう。ずっと死んでいて、歩くときなんかでもうまいこと歩いているんですよ。実にうまいこと歩いていますよ。
【高平】 こうやって両手を肩に乗せられて死体と一緒に歩く。あれはうまくいかないものですよね。
【澤田】 歩くまでは全部体重を乗せているの。あそこだけ、すっすっすっと歩くんですよ。普通ライブだと、どうしてもやるじゃないですか、何回も。つらいし。それも平気。映画だから、短いから、そのシーンだけやればいいわけでしょう。昔を思い出してやっているの。あれは感動したね、見ていて。エノケンは面白いと思った初めての映画。何とかみんなに見せたくてしょうがないんですよ。個人の所有でなかなか難しい問題がある。だから、そういうのを今ごろ発見して、ああ、申し訳なかったなと思いますもの。もっと早くに知っていたら、言い方があったんだけど。
【高平】 あとロッパさんもテレビの時代は面白くなかったですね、僕らの世代だと「轟先生」でしょう。この人もすごかったと言って姉が見せるんです。でも僕にとって面白くないんですよ。もそもそしゃべっていて……。
 後で、二十歳過ぎ、三十歳を過ぎて、ビデオで見られるようになってからは、確かに面白いって思うけども。
【澤田】 芸人の評価は、いつの時代を見たかでみんな印象が違うんです。ここらが僕らモノを書く人間にとって難しいところなんですよ。小林信彦さんが、僕もですけどエノケンさんの晩年からしか見ていないからさしたる評価もしてない。だけど全盛期の舞台を知っている人はとても面白かったという。
【高平】 エノケンさんも生誕百年となると、一緒に仕事をしたといっても、今いる人はみんな末期しか知りませんよね。晩年に劇団に入ったとか。内藤陳さんとか財津一郎さんもそうでしょう。全盛期を知っている人がいませんもの。「エノケンは面白かったよ」って昔話ばっかり聞かされるから、見ていないだけにつらいわけですよ。エノケンさんは少なくとも昭和三十年代ぐらいまでは神様みたいにいわれましたよね。
【澤田】 大阪でいうと、エンタツ・アチャコですよ。「おれは花月でエンタツ・アチャコを見た」という人には、私はもう何も言えません。(笑)正直言うと僕、ダイマル・ラケットのほうがはるかに面白いと思う。ダイマルさんはエンタツさんのいいところを取っていますしね。だけど、衝撃っていうの、落語の世界を漫才が変えていく、染め替えていくという、衝撃的なところをリアルタイムで見ているのは堪らないでしょうね。
【高平】 新たな芸能ができる様を目の当たりにする機会なんて滅多にないですから。
【澤田】 僕は、戦前の小屋っていうのは本当に知らないから、戦後に戦前の小屋を知っている人から話をいろいろ聞いたんですよ。そのタレントの思い出と小屋の思い出がぴたっと付いているから、大劇で何を見たとか、これを見たって、戦後のことだと思って聞いてたら同じタレントなんだけど、戦前の話だったらもう、参りましたっていう雰囲気。戦前の映画のプロデュースなんかしている人が、戦後はその経歴で引き抜かれて、テレビのプロデューサーなったって人がいっぱいいたんですよ。そういう人がいたのに昔の話を聞くとかしていないのが悔しいね。
 芸人はいつの時代を見たかでみんな印象が違うんです。

●舞台・映画・テレビの芸人たち
【高平】 森繁久彌さんなんかそうですよね。
【澤田】 あれよあれよという間に変わっていく。あの人はもともとピカレスクですから。もう、要するにインチキなわけ。「三等重役」なんかもう社長をだまくらかす。
【高平】 「スラバヤ殿下」なんか、もうめちゃくちゃだった。
【澤田】 詐欺師ばっかりでしたね。面白かったですよ。それがいい役に変わっていくから、森繁さんがあんな偉人伝をやるのはおかしいって言う人もいるけれど、見ている人にとってはその辺の変わっていくさまも楽しみなわけですよ。
【高平】 「社長シリーズ」の森繁さんとのり平さんも面白かった。社長室での二人のシーンになると、カットせずにだらだら撮るんですって。すると、いきなりポケットから手帳を出して、「二次会はここで、パッと」って言うのは全部アドリブなんですってね。森繁さんがまた面白がってやり返す。その部分で「社長シリーズ」は面白くなっちゃったんですね。
【澤田】 当時の映画としては珍しいですよね。そういう撮り方は知りませんもの。
【高平】 久松静児さんっていうのは、そういう監督だったっていいますから。
【司会】 ほかに印象に残る人といえば誰ですか。
【高平】 トニー谷さん。トニーさんは、『てなもんや三度笠』にやっぱりゲストなんかで結構出ていたんじゃないですか?
【澤田】 そうですね。みんな嫌がる人なんだけど、あんなに熱心な人はないし。あと玉川良一さんとか、そういう癖の強い人が好きなんですよ。あまりいないから。
【高平】 ああいうキャラクターだとスタッフは困っていましたね。東京では滑っちゃっているのね。
【澤田】 そうなんですよ。別に役柄で使うから。それに本人さんも喜んでやってくれるし、大阪だからやってくれたっていうこともあるかもしれませんね。
【高平】 南利明さんっていうのは、「てなもんや」で名古屋弁で花開いたんですよね。舞台の陰に隠れていたわけだから。
【澤田】 マチャアキのお父さんの堺駿二さんは本当にいい人でしたね。ゲストで出てきても、大体主役の対極にいて、いじめ役だったり、敵役とかそういう割り振りになるんですが、堺さんの場合は、そういう役に振れないんですよ、人の好さが出ちゃうから。(笑)
【高平】 『歌う狸御殿』かな。ひばりさんが出たやつかな、雪村さんのほうかな。斎藤寅次郎監督でしたそれで、トニー狸と堺狸というので、コンビで、これ見たのが小学校三年ぐらいで、もうやたらにおかしくて何べんも見たな。
【澤田】 堺さんのおかしさっていうのは、何か不思議なおかしさで。みんなが知っているけど、自分がメインじゃなくてあっちこっちで重宝されるという、位置づけも不思議な人でした。

●新しい街新宿と古くからの町浅草
【高平】 僕ら、子どものときはもうコメディアンってみんな浅草だと思っていた。だけど、決してそうじゃなかったですものね。由利さんと浅草がどうのって芝居の話をした時、「おれは浅草の人間じゃない。新宿だ」って言ってましたね。
「浅草芸人」というのがステータスだった時代があって、浅草に誇りを持っている人が大勢いたからじゃないですかね。由利さんが活躍していた時期はまだエノケンさんがいたから。
【澤田】 ムーランも、もともと浅草でやっていた人が新宿で始めたわけでしょう。昭和も終戦頃は、新宿っていうのは全く新し街ですよね。
 PCLの最初の映画で『ほろ酔い人生』っていうのがあるじゃないですか。小田急のプラットホームから始まるんですよね。そこでエビスビールを売っているんですよ。というのもエビスビールがスポンサーなんですよ、PCL映画の。ポスターも全部エビスビールだし、しまいにはビヤホールで乱闘。
【高平】 そういえば、エビスビールのポスターってよく見たわ。ああいうもので映画の思い出が残るんですね。
【澤田】 要するに新宿を新しい町、副都心として売り出そうと、そういう動きがあったみたいです。だから、一種のキャンペーンですよね。
【高平】 僕は小学生のときの新宿での軽演劇というのは、石井均さんだった。のぼりをよく見ましたよ。あれは常磐座だったんですか。
【澤田】 いや、常盤座じゃなくて松竹文化演芸場。そこでテレビ中継をやっていたんですよ。それを僕は大阪で見ているんです。石井均さんと、それから財津一郎さんがいつでも学生服を着て出ていた。それがものすごく印象に残っていて、財津さんに後年会ったときに、「何でおまえ、ずっとあの格好だったんだ」って訊いたら、「自分の持っている服で役が決まった」って言うんですよ。(笑)学生服しかなかったから。
【高平】 もう一つの芸どころ、浅草になると全盛時代とか、ストリップの全盛時代なんかのコメディアンなんていうのは、僕らは話でしか聞かないから分からないですよ。
【澤田】 僕らの世代では間に合ってませんわ、全盛期には。平さんご存知ですか?東八郎と石田英二と池信一で「丁稚どんトリオ」ってやっていたってやつ。
【高平】 知りませんね。
【澤田】 『番頭はんと丁稚どん』が放映されてヒットしたら、すぐ浅草の東洋劇場で、そのままのストーリーでやったって聞きました。同じかつらをかぶって着物を着て。それを、大阪から見に行った人がいるんですよ。あまりに評判が高かったから、見たらそっくりだよって、あれはいいのかねとか言っていたんだけども。
【高平】 たくましいなぁ。

●コメディーの系譜
【高平】 そういえば「落劇」なんてテレビでやっていました?関西でも。
【澤田】 やってなかったように思うなぁ。どういう番組?
【高平】 昔々亭桃太郎さんと桂小金治さんで、毎週月曜日の八時半からTBSで、全部落語のネタをやるんですよ。その前の時期だったと思いますけど、同じような時間帯でやっていた「のり平のシャープ劇場」っていうのが大好きでしてね。
【澤田】 それは来ていました。日本テレビは来ていましたけど、TBSの番組はほとんど来ていなかった。関西だとどうしても、見ていないものがずいぶんある。僕らは小金治って面白いなと思って見ていたのは映画でだけです。松竹の映画に脇役でずっと出ていたんですよ。フレッシュで、粋で。
【高平】 テレビでは、落語をやらないコメディアンのはしりみたいな。でも、落語劇ですからね。
【澤田】 僕らがよく見ていたコメディーの系譜の中にはやっぱり、関西の系譜がものすごく入っているというのを感じますね。三遊亭柳枝さんがやっていたコメディーとかを見ているわけです。おかしいのは嫁いびりのネタがあって、僕は柳枝のいわばオリジナルを見ているわけ、テレビも撮った。だから、感嘆しているから覚えているわけですよ。由利さんのところにどさ回りをしていた浪花節をやるようなのがいたんですよ。太った、丸い、死にましたけど。
【高平】 はな太郎さん。
【澤田】 はな太郎は、こんな面白い芝居がありますよと言って、嫁いびりの芝居を作ってきたんですよ。それが同じ芝居なんです。元は柳枝劇団のものなんでしょうけど、変わって変わって、東京のになっているんですよ。これは、博多淡海が松竹新喜劇の「お祭り提灯」を見て、九州に帰ってからそれをやって、大阪にまた出てきたときに朝日文楽座でやったらクレームがついたらしいんです、渋谷天外さんから。この芝居は松竹新喜劇のもんだと。「知らん、うちの親父のもんだ」って淡海さんの息子の木村進は言ってたけど。
【高平】 だけど、似たようなストーリーが多かったですね。由利さんが、おれはあの芝居をもう一度やりたいとよく言っていた、「くしゃみ、借金、癪の種」って、要するに田舎から出てきて、社長のところで運転手をやっている。ある日、学校の先生が遊びに来るからって社長と運転手が入れ替わる。
【澤田】 彼女ね。かおるっていう。嫁さんですね。
【高平】 最後には全部、実は。
【澤田】 知っていた。
【高平】 こんな話ばかりだったでしょう、この時代。デン助もそうだし、新喜劇もそうだし。
【澤田】 みんなだれかが、これは面白いと思ったら口立てするでしょう。だから、淀橋太郎さんに聞いたら、ネタに詰まると、夜行で来て、浅草で芝居を見て帰ってきて、汽車の中で書いて、すぐやったっていうから。著作権がないし、ネットワークがないから、何でもできるわけです。九州だったら、「お祭り提灯」もできるわけですよ。『権三と助十』なんていうのは、戦前の浅草でしょっちゅうやっている『大岡政談[権三と助十]』っていう題で。大岡政談って、丹下左膳のあの芝居の中の一部なんですよ。それを団五郎のときに、劇中劇だからやろうかといって、あれをやったんですよ。こういうストーリーをまるまる持ってきて別の劇団がやるのはどうだろうって人もいるけど、僕は面白いものは残していったほうがいいと思います。若いタレントでやったり、アレンジを変えたりすると全然違う芝居になりますから。

●放送の演芸
【司会】 この頃の寄席演芸の方はどうですか
【澤田】 僕の師匠というべき人に小菅一夫って人がいましてね、浪曲の脚色とかやってたんだけど。
【高平】 放送関係の方ですか。
【澤田】 そう。僕が大阪の朝日放送に入ったとき嘱託でいて、浪曲だとか演芸番組の制作をしてました。浪曲の番組を任されたときに、開局したばっかりの朝日放送では出演者のスケジュールをまとめられないんですよ。で、小菅さんを頼って大御所の出演を取り付けてもらったりして。
【高平】 小菅さんならわけなくできた。
【澤田】 わけなく、とまで簡単じゃなくても、かなり顔が利いたから。広沢虎造の死後、遺族から権利一般の管理を任されたぐらいだから。
【高平】 そこまで信用されてたんだ。
【澤田】 三十分の番組ならCMがあって正味二十六分でしょう。真ん中にCM入れるから前後半十三分づつ。真ん中で切っても不自然じゃないように、かつ二十六分で終わらせないといけない。だから演目決めたら時間に合わせてカットしたり新しい節やタンカを入れたり、この脚色が浪曲番組のプロデューサーの大きな仕事なんですよ。虎造さんもほかの大御所も、その脚本で時間通り語ったんですから、脚本の押さえどころが的確だったんでしょうね。信用もされるわけですよ。
【高平】 ほとんど浪曲作家。
【澤田】 このあと、昭和三十一年に視聴者参加型の浪曲番組を作ることになって、「浪曲歌合戦」って番組を初めて、これは素人に浪曲師の物マネで当時の歌謡曲の歌詞を語ってもらうという番組なんですが、これやってるときに虎造さんが大阪に来るって話があって、虎造さんをゲスト審査員にしてその回は虎造節のマネ一色でという企画を考えたんですね。この番組の審査委員長は小菅さんだったから小菅さんに提案したら「たぶん無理だろう」って。それでも粘って「じゃ私が直接頼みますから小菅さん立ち会って下さい」って無理矢理頼んで、虎造来阪の時に楽屋行って企画の説明したら「おい若えの」
【高平】 浪曲語ってるときと同じトーンで(笑)
【澤田】 タンカそのままの声で(笑)、「お前さん、何かい。俺の節マネをしている番組に出ろって言うのかい」
とにかく謝って楽屋から逃げ出した。放送の仕事四十年以上やってるけど、あそこまで冷や汗が出た経験はないですよ。あとで小菅さんから「いい度胸してやがる」って虎造さん言ってたよ、って言われたけど、慰めのためのウソだと思いますね。
【高平】 脚色の得意な人だから。
【澤田】 小菅さんの話に戻すと、放送用に「清水次郎長伝」なんかほとんど全部書き直したのね。「祐天吉松」でも書き足したところもかなりあるわけですよ、当然。その書き足し部分が例えば落語の「子別れ」から持ってきているんですよ。祐天吉松があそこの桜を見に行って。
【高平】 やぶ入りで帰ってきて。
【澤田】 子どもが殴られているやつを助けるんですよ。おとっつぁんがいないとかいう話を聞くところが同じなんです。でも、それは全部そういうふうに入れて作るわけでしょう。それは明らかに落語が原点で、「祐天吉松」のやつは後なんですよ。それは例えば、「会津の小鉄」に京山幸枝若がやっているのに「小鉄の少年時代」っていうのがあるんですよ。これは次郎長伝の、「小政の少年時代」っていうのと同じなんです。それが後になってこうなったという話。あれは先代の幸枝さんから譲ったものだけど、その幸枝さんのやつではないんです。
【高平】 そうやって芸能ができていくわけだ。
【澤田】 どんどんできていくわけ。今でも、能力のある人はそれをやっていく。小菅さんはそれをやっていて、虎造さんが亡くなったときに、奥さんが全部小菅さんに著作権をお願いしますと。テレビの交渉、ラジオの交渉を全部やってくださいっていうので、彼が交渉して、そのテープをレコードにする、LPの企画の全部、それを脚色、小菅一夫っていうので、著作権は全部そこへ入ってくるようになっちゃった。それを「一人占めはけしからん」と言う人が出てくるんですけど、実は違う。本当に小菅さんに著作権があってもおかしくないぐらい作り直してるんですよ。

●芸能の記憶、町の記憶
【司会】 芸能の記憶や、町の記憶といったものが、まとまった形でみられることが今は全くないと言っていいですよね。それをなんとか拙い形ではあっても、現在持っている芝居小屋や寄席、映画館なんかの位置と、そこで演っていた芸能といった情報を立体的に、今日のコンピュータソフト、エンターテインメントのソフトといったデジタルで表現した、こういうものをどういうふうにご両者は見られますか。
【高平】 歴史って重層的だから、こういうメディアでこういう見せ方ができるとわかりやすくなりますよね。紙ではできない表現方法ですから。
【澤田】 ちょうど今から二十年ぐらい前、会社で徹底的なコンピュータ化を進めていったんです。一流企業は全部コンピュータをやらされた。自分の会社だけでは間に合わないから、家でも買って、一生懸命やって覚えた。その人たちが全部定年になっちゃったんです。でもその世代が見るソフトがない。だからこういうものがぴったり来ているんですよ。
みんなそれぞれ、自分の見た映画っていうのがあるじゃない。これだけ沢山あるんですから。そこら辺の各個人のデータまで入ってくると面白いですよね、「どこそこで見た何とかって映画面白いよ」って。自分でもソフトの地図上にポイントを置けるっていうのをこの間聞いて、作っていくことの面白さも含めて言うと、おれはこうだったけども、ああ、そうか、こんな人もいたんだと。同じ映画館でこんな思い出もあるんだと。じゃあ、おれのやつを入れてみようとかということも、ベーシックなものを作って、ユーザーが工作していくと、やる人はいますよね。メールを送っているのだってそうでしょう。現実にどんどんできるわけだから。
【司会】 双方向のメディア、インターネットがまさにそうですね。
【高平】 だからこういうものがあるっていうのを、そういう人たちにまず知らせることですね。
【澤田】 まだこのソフトでは双方向メディアにはなっていないけど、こういうもののたたき台を作ったところに大きな意義があるね。
【高平】 今までなかったですからね。データベースで、エンターテインメントで、しかも中高年向けというのが。「こういうものがあればいいなぁ」と思っていた人はいっぱいいますよ、絶対。僕らだけじゃない。
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